酵素について

身体の中心的役割を果たす中心的な『代謝酵素』の充実

●「モノ」としての酵素のイメージから、「青写真を持つはたらき」としての酵素へ。

 

・「酵素とは?」と考えるとき、「栄養素の一つ…?」と思われているようです。

酵素の特有の効用や効能があると考え、外から摂り入れる方法がほとんどと思います。

酵素の薬やサプリメントのように考えられたりしています。酵素を身体に摂り入れれば、健康にいい。

というような考えです。一側面の印象を「酵素」と思われているように感じています。

 

私が考える「酵素」は、身体の機能を司るコントロールセンターのようなものにより管理されていて、その身体を持つその人の生活に応じて、酵素がシフトされてゆきます。本人が、「代謝酵素」こそ健康の元であると考えて、外部から摂り入れる食事や飲み物やたばこ、薬などを控えるなら、自然と代謝酵素が充実してゆきます。

逆に、「好きなものを好きなだけ食べる」で生きるなら、身体の中の酵素のシフトを消化に使うことになります。

全体のバランスが崩れ、代謝酵素がおろそかになり、病弱になるのです。

 

 

常に身体全体がよくなるように、生命として生き生きととハツラツと活動するために存在する、バラエティ豊かな個性をもった体内物質群の連携とその働きが酵素であり、その生命の意志と繋がっているものだと思っているのです。

 

〇何かを摂り入れることで健康になる…ではなく

〇できるだけ、何も摂り入れない…ほうがよい(※もちろん、体質や病気を考えて判断ください)

 

私たちの身体は、あるべき理想を抱いてそこに向かおう、向かおうとする力を持っています。

あるべき姿、形、活動能力を発揮する設計図(遺伝子)があります。

その個性を発現するためにある体内に存在する生体内の触媒が酵素と考えています。

1万種類の酵素(変化の介在物質)が連携しているようです。

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●自分の外にあるものを身体に摂り入れる。

 

食事をすると食べたそのものは、口から胃へゆき、小腸で栄養が吸収されて、「同化:必要なものは身体にとどまる」「異化:不必要なものは外に排泄される」という同化と異化という働きをします。身体の外側にあった、いわば異物であったものを身体の中心に摂り入れるのです。

 

ほとんどの生物が口からいれて肛門から外に出します。ほとんどの生物は「管(くだ)」をその中心にもっています。管の中心あたりにエネルギーの吸収器官があり、蓄積、保存する器官があるようです。人間なら肝臓です。

 

人は小腸より摂り入れたエネルギーは肝臓に貯められます。そして、活動してゆきます。活動すべきためにエネルギーを吸収するのですが、活動するためでなく、「食べたいがために食べる」という、本末転倒状態になっています。

食べることが安易に心地よさ、「快」を得られる時代になったからです。

もともとは活動のためのエネルギー源であるものが、その活動が「食べる」ことが主であるような生活を送ることになっていて、「美味しい、心地よい食事」から、ちょっとしたことで、「退屈…」「何かむしゃくしゃする…」といった、気分転換とストレス発散の食事になっています。空腹で食べているのではなく、気分で私たちは食事をし、必要以上の栄養を摂りすぎている。使いもしないエネルギーをどんどん身体に摂り入れてしまい、富栄養化状態になります。そのために酵素が消化のシフトとされてしまい、身体の中心機能を維持管理する代謝がおろそかになり、身体が弱ってゆくのです。

 

●細胞の入れ替わり

 

エネルギーとして吸収し、身体に摂り入れ、また不要物として外に出す。そして、私たちの身体は常に変化して、一ヶ月、二ヶ月、と新陳代謝して細胞は入れ替わる。何ヶ月かをかけて入れ替わる臓器もあるそうです。そうすると、一年、二年、身体のほとんどは全く入れ替わっているのです。私たちはその自覚はありません。しかし、私たちの表面意識はそのままです。

このように、考えもしないでスムーズに自然なはたらきをするのが酵素。恒常性、新陳代謝システムです。

意識とは別に、身体は入れ替わっている…なんと不思議なことでしょうか。そして、この身体だけではありません。自然界の生物たちも、私たちの細胞のように新世代が誕生し働きの世代となり、そして老いるのです。この、不思議な相似形は何を意味しているのでしょうか。

 

●地球恒常性と人体の恒常性と酵素健康法

 

地球上の自然は、さまざまな生物、植物、動物の個性のつながりがあり、大自然の豊かさを表現しています。私たちはその雄大さと緻密さ、精緻さに感動します。一見弱肉強食に見えるようで実はいつまでも一定数が生存するようになっています。食物連鎖。酸素と二酸化酸素の循環、個性が互いを生かし合ったり、協力したり、また正反対に食う、食われる、という関係があり、「ガイア」という考えは地球が一つの生命体とのことば。植物、動物のあらゆる個性が、自然界のハーモニーをつくるように、体内のあらゆる細胞、臓器、菌類までが調和されるのは「酵素」のはたらきだと私は思っています。人体と地球の恒常生はとても似ていると思うのです。

 

自然界という恒常性と同じように、身体にも恒常性があるのはとても興味深いものです。酵素とは、その個体の生命を維持し、存続させようとする意志とつながり(はたらき)。さまざまなはたらきをする体内物質(触媒)で、酵素の充実、連携が身体を守っていると考えています。そのそれぞれの個性(種)として、その個性の発現を続けられるように生きているのです。そう仕組まれています。遺伝子が各細胞にあり、その遺伝子(設計図)を読み取られ、その設計図どうりの細胞となり、はたらきをつくるのが酵素と考えます。

皮膚の細胞は皮膚つくっています。また、消化酵素は、何段階かの酵素による変化により、エネルギーにして活動源として蓄えられます。また、暑い寒いをはじめとする様々な環境に応じて変化せざるえないのが私たちの身体。その、変化対応の役割をしているのが酵素だと考えています。

そういう意味でいうならば、同じ環境にあっても、大食漢か少食かは、大きな違いです。その人、本人が造りだす体内

環境だからです。自分の環境を自分の意思により、つくり出してしまっているのが人間です。同じ環境にいても、多く食べる人もいれば、少食の人もいる。お酒を飲む人。甘いものを食べる人。あまり食べない人。それぞれですが、その人の環境はその人がつくっている自覚もなく、生まれ育ちの中でそう生きているのです。その末路はそれぞれ違うということです。

その原理を利用して健康になろうとするのが酵素健康法であると言えるのです。 

 

●もっともリアリティがある『快感原則』

 

私達の身体は、常に変化しているのです。一瞬一瞬の変化。変化していながらも、変化に見えない変化。

この変化は化学的なものです。それが命を支えています。酵素(体内の触媒)は『生化学』と言われます。

生きること。生命とは、肉体の維持管理、修復や活動を支える有機的な化学的な現象のようです。

 

口から食べ物や飲み物を摂り入れ、そして消化器系を通ったそれらは、肛門から排泄されます。または尿として排泄され、汗や垢となって身体から離れてゆきます。このように身体は新陳代謝しています。昨日の私と今の私は微妙に違うのです。3ヶ月前の私と今の私はかなり違います。そして、一年前の私と今の私はほとんど違うのです。つまり、細胞が入れ変わっているのです。一年前も昨日も同じよう見えるだけで、細胞は世代交代しているので、入れ替わっているのです。皮膚細胞の代謝をいうと28日くらいの時間をかけて、はがれおちるように、垢となるのです。細胞は目まぐるしい変化をしているのです。

 

私たちはそのような現実を知っていても、知らなくとも身体は代謝をして変わってゆく。関心を持とうと持たずとも、昨日と同じように今日がある。それが当たり前の感覚だからです。

 

一瞬一瞬の選択がいろいろなものに影響を与えているのですが、それが気が付けないのです。なぜなら、「快」となることばかりを追い求める意識は、同時に「苦」を無意識にしりぞけようとしています。それは、子供のような意識で、真実を見失う傾向を孕んでいます。真実を見失うからこそ、迷いつづけます。万人がこの「快」を求め、「苦」を無意識に退けるという原則に生きています。これを『快感原則』といいます。すでに私たちはそのように生きてきました。この浅はかな快感原則から離れるには、真実の体験以外にはないと私は思います。それが酵素健康法にあります。

 

「変化」と「対応」というように、相補性という視点があります。今までと違う、選択をすると、それに対応した現実が生まれます。そして、それによって新しい発見や気づきが起こり、さらにその選択の確かさを深まります。新しい何かは外の現実と内なる信念に変化をもたらすものになり、新しい道を開いてゆくようです。「酵素玄米を日々の食事にしてみる」という自然な中に起こるこの変化は、必ずあなたの常識に亀裂を与えることでしょう。

 

●地球の恒常性

 

例えば、3000年前の地球と現代の地球について想像してみてください。月から見たら、ほぼ同じように青く輝く星にみえるのではないでしょうか?

しかし、地球の表面に分布された動物や植物は何世代も交代してしまい、まったく違う世代が地球の表面をおおっているのです。同じように見えて、同じではないのです。

 

私たちも同じように見えて、まったく違う変化の中に身をおいています。この不思議は、いったい何を意味をしているのでしょうか。身体は、刻一刻として変化しているのです。地球も刻一刻と変化していて、全体としてはほとんど変わりないのです。変化する身体にありながら、意識(心)は、ほとんど変化しないようです。昨日と今日は同じという感覚です。新陳代謝の真実は、ここ最近の研究です。半年前の自分の身体と現在の自分の身体とは、ほとんど入れ替わっていること。それなら、自分とはどこを指すのでしょうか?

 

 

●身体の「変化」と「酵素」

 

私たちは、外界からの刺激に対してそれを取り込み、または排除して生きています。

 

口から食べ物と飲み物を摂り入れ、そして消化器系を通ったそれらは、肛門から排泄され、または尿として排泄され、汗や垢となって身体から離れてゆきます。消化された食物は、小腸にて栄養素を取り入れる。

 

「同化」:栄養分やエネルギーとして内に取り込んでゆく。

「異化」:必要のないものとして外に排除してゆく。

 

これらの、はたらきをしながら生命を維持しています。

外から取り入れたものから、必要なものと、そうでないものを外に出す。

外界から酸素を取り込み、二酸化炭素を出す。この作業の中にも酵素がつかわれているそうです。

身体にある様々な変化には酵素(体内触媒)が関与しているようです。

 

細胞レベルでは、常に目まぐるしい変化が起こっているのです。意識がそれを知ろうと知るまいと、身体はそれを繰り返しています。その絶妙で精妙なはたらきがあります。それらを司る何かがあるのです。この絶妙で精妙なシステムは、酵素によって、変化し、維持し、管理している何でしょうか。酵素管理機能がきっと自律神経の中にあるのでしょう。

 

 

●好き勝手な食事と自由な生き方

 

食べるのが大好きな人は、食べ物を大量に取り入れる習慣に応じた酵素のシフトの身体の体制となるのです。

逆に、断食をすると食への酵素配置をやめて他に酵素を配置します。身体は、常に変化するために酵素を使うのです。

そして、その優先順位に応じて酵素シフトをつくりかえるようです。

 

なぜなら、断食をした人が、元の食事にもどすために、重湯から、おかゆにして徐々に固形物にします。酵素の配置シフトがここで証明されます。酵素管理機能があるのです。

 

逆に言えば、あなたが毎日お酒を2合呑むのならそれに応じた身体になるでしょう。

お肉がやめられないなら…。

甘いものがやめられないなら…。

間食がやめられないなら…。

それに応じた身体になります。少食なら少食の酵素の配置になります。無駄な消化酵素を使わないので、身体を維持管理するために使われる、代謝酵素(身体の中心的役割の酵素)が充実するでしょう。

 そのような、代謝酵素≒身体の中心的役割の酵素が身体に充実しているかどうかを自分で観察するのが酵素健康法です。

 

 

●まだ、十分に解明されていない酵素

 

ゲノムが解析され、人間はこの遺伝子によって、身体の個性などが現されている。もう、人間のすべてが解ってしまったように思われています。自然界と人間のつながりがわかりコントロールできるようなイメージが、広がったようです。酵素はまだまだ未知なる領域です。それでも酵素をコントロールすることはどうやらできないようです。

 

あなたは、「酵素がたりませんね。」と医者が言っても肝心な代謝酵素の充実は他からの補填はできないようです。それができるようならすでに病気はなくなるのではないでしょうか。私は代謝酵素の充実は、外からの摂取をやめえt、身体を冷えから守るということを第一優先にするのなら、かなりの方が健康になるのではないかと考えています。

何も摂らないことで、健康になる…それは断食で様々な病気が改善方向に向かう原理です。

 

 

身体を維持し健康になろうとする力が誰の中にもあり、その環境とその人の意志に基づいて生活習慣がつくられて、酵素が各場所で働くと考えます。酵素がまだまだ未知なる分野であり、発展途上の分野であると思う理由の一つに、20年ほど前ですが、3千種と言われていた体内酵素の種類が、今では1万種を超えていると聞いています。未知なる分野が酵素であると考えます。また、患者に対して、とにかく薬を出すというのも考え違いだと思います。薬は必要な場合もあると思いますが、その薬、その薬が効き目をあらわすために酵素が必要になります。きつい薬は、大量の酵素をシフトしますので、そういった意味で今の医療は、酵素をとても軽視していると思います。

 

●身近な酵素

 

代表的な酵素として、アミラーゼ(ジアスターゼ)というものがあります。唾液の中に含まれていて、でんぷんを麦芽糖に変化させるという酵素です。中華丼や長崎の皿うどんの中華のあん(片栗粉でとろみをつけたもの)をたべているときに固めのとろみも食べ終わる頃にはサラサラになります。それは唾液のアミラーゼが箸をとおしてお料理の中華のあんに付着して触媒反応をおこしているのです。

 

一つの酵素は一つの働きしかしません。アミラーゼはでんぷんに反応するだけです。そのような働きを起こす物質が身体にあるのです。つまり、身体の中の変化はすべてこの酵素(体内触媒)が関与していると考えられます。ですので、体内の変化いについて一つの酵素があるのです。

以前は3千種だったのが1万種に変わったのは、身体の中の変化について研究が深まったように思うのです。しかも、いつも一定であるのでなく、その人の生活習慣と深い関係性があるとを思います。食べ過ぎの人には消化酵素が充実し、代謝酵素が不充実となるようです。代謝酵素が足りなくなると身体の抵抗や免疫力、自然治癒が劣ってくると考えます。アルコールを取る人、甘いものが好きで太っている人。このような人は水虫をもっておられたりします。代謝酵素の充実が弱まり、身体の中にある菌(日和見菌)が元気になっているからだと思います。あなたはいかがでしょうか?

 

そうなってくると、酵素を温存するために何もしないで怠惰な生活をすればいいのかということになります。身体に起こる変化によって酵素が対応するのであるならば酵素を温存するには労働や運動もしないほうが良いように思われます。でも、実際には怠惰な生活をすると病弱になります。ということは、適度な労働や運動が必要になるということです。このあたりに酵素の不思議があります。人間の本来的な充実はその人に見合った労働や運動が必要であり、その裏にある、働くことの幸せも深く関与しているようです。自分のために生きるのでない、家族や友人知人、ひいては社会のために生きるときに、人はなぜか元気になり、充実して身体も充実するようです。ここにこの健康法と哲学の接点もあるように思えてなりません。

 

 

●酵素の充実は、その人の自律性のように感じています。

 

「仕事の充実」「適度な運動」「簡素な食生活」という具体的な生活態度と内面性として、家族への愛情や友情や社会的な責任までを含み、充実した生活態度が酵素と深く関連していると思うのです。私たちのこの感情が本当に充実したときに酵素も充実方向に向かう。それが私の酵素に体する「仮説」です。そして、酵素ご飯を食べていただいている多くの方との出会いを通してそれを確信しています。

酵素の働きなどの研究がされているようですが、この酵素を全体として眺めること。酵素は物質でありながら、とても人間の心の部分に深く関与していると思うのです。

 

 

●何かの栄養素を摂取するのでなく、なにも摂らないという選択。

 

酵素による健康法について目が開かれている人が増えていると思います。民間療法が解決策を見出しているようです。「玄米食」や「野菜ジュース」「断食(ファスティング)」に、スポットライトが当たり出したようです。でも、まだまだです。私たちが、食べることに対してつつましくなるとき、身体はもっと健康力を発揮するという真実を知ることになると思います。

 

お医者さんも栄養士も、その真実を見ていないようです。つまり、お医者さんは薬を出しすぎるし、栄養の摂りすぎに注意もしない。栄養士も同じく、栄養の摂りすぎに注意しないでバランスを重視しているようです。

身体は、摂取する栄養はそんなに多くなくってもいいようにつくられているらしく、飢餓状態の方が強く、むしろ、栄養過多(富栄養化)の状態の方が不都合が多いようです。現代のような豊かな食生活の時代は歴史上なかったでしょう。医者も栄養士も食べることを「簡素にさせない」というのは酵素を知らないということです。

 

動物は病気になったときに食を断ち、土に身体をつけて静かにすると言われています。このことをどのように考えるのでしょうか。 何かを摂取することよりも摂取しないという道があります。そういう意味で、お医者さんも栄養士の先生もおわかりになっておられない。酵素についての働きと健康との関連性については、ふかまっていないようです。

 

 

●例として

 

数年前に有名な歌舞伎役者がガンでなくなりました。有名な病院に入院してのことです。この役者さんのことですから、最善の医療をととのえての治療だったようです。奥さんが手記を出されました。そこに、その亡くなられた役者さんはうつ病であり、強い薬を投与されていたそうです。その上に、抗がん治療をされたというのですから、酵素のことについては無視されているように思うのです。そういう意味で、習慣がつくる体内・酵素シフトがわかっていないのではないかというのが私の持論です。

 

酵素は代謝酵素とそれ以外の酵素と分けて考えるとわかりやすいように思います。一般的に、代謝酵素と消化酵素という二つの分け方をされています。代謝酵素というのが身体の基本的な機能に対処していると考えています。

薬の摂りすぎは、薬対応の身体のシフトになりますので代謝酵素のシフトが手薄になります。さらに、抗がん剤というヘビーな薬を投与されたらそれを迎え撃つことに酵素が使われるのです。たいへん厳しい状態になるのではないか、というかが私の今の見解です。

 

それでも、正しい医師の適切な施術により、治っている方もたくさんおられます。これからの時代は、酵素を生かした施術でさらに多くの方々に希望を与えられる医療が待たれているのではないかと思います。

 

「酵素」とは何か…それは「迎え撃つ力!」

●習慣がつくり出す体内・酵素シフトについて

 

私たち身体をこの皮膚から外と内と分けてみます。そして、常に生きながらえようとする力が身体にあります。当然、私たちの表面意識も日々の仕事や家事に追われて生活を守り、家庭を守り、自分自身を守り、そして、よりよい人生を創ることを守っていると考えます。そして、この身体は身体の機能として身体の維持管理を常にしているのです。

 

絶えず外界から様々な刺激や異物が侵入し、それを迎え撃っています。それに対処している主体者が「酵素」でしょう。寒いと、体温が下がらないように備えることになるのです。

付き合いでお酒を飲まないといけなくなるとアルコールに対処するようになります。

緊張する生活環境に入るとそれに備える。常に常に備える。身体が身体としてあるべき状態を常に保とうとしている身体の抱く意思があり、それに応えて対処し、配置されるのが酵素だと思います。習慣と酵素は深く関係します。

 

例えば、甘いものばかり食べている人にとっては、甘いものに対する酵素の配置がされることになるでしょう。

その酵素が、充実しているということになります。しかし、それは代謝酵素全体にとって危機的な状況になるのです。

必要以上の甘いものを取ることは、代謝酵素の充実を危うくさせてしまうからです。

ですから、身体はなんらかの病気の兆候をみせて、本人に知らせます。口内炎や湿疹というような状態をつくり、食生活を改めるような信号を与えます。それでも変わらないようなら、次の段階へとすすむことになるではないでしょうか。

 

●甘いものは幸せの代用品。

 

人間にとっての幸せは、その人の深化であり、成長であると思います。しかし、甘いものや美食が幸せに甘んじようとする人にとってはそれ停滞そのものです。いやなこと辛いことを忘れるだけの生き方に対しての警鐘ならしているのかもしれません。ふしぎです。個人として何を幸せにするかは、その人の勝手であり、干渉されることではありません。でも、身体は、それを違うと発しているかのようです。身体はそんな方に考え直してほしいと発しているように思います。あなたにとって、それが本当の幸せですか?という問いかけのようにさえ感じます。

 

病と性格ということで、検索してみるといいかもしれません。病気を生み出す「気」がそこにあるようにも思えます。メッセージが病の中にあるようにどうやらあるように思えます。甘いものや美食がいけないのではない…ということから、次の段階に向かいたいものです。それだけで終わらないようにしたいと思います。

 

●酵素から考えると見えてくるもの

 

「俺は酒が強い!」と自慢する人がいますが、お酒が強いというのも、単にアルコールに対しての酵素が充実しているということになるのです。寒いところで生活し、魚ばかり食べる民族がいるとします。それにふさわしい酵素のシフトが民族が備えていると考えています。

 

お湯断ちをした人がいます。お風呂に入らないで、水で身体を洗う生活を毎日した人がいます。その人が体調を崩すときがありました。風呂にはいると風邪をひきます。その場合は、身体のシフトがお湯断ちに見合った状態になり、風呂にはいることによりバランスが崩れるということです。これも酵素のシフトと関わっているのでしょう。

 

また、酵素玄米だけで生活を10日ほどしていて、急に牛丼を食べたら、下痢をしてしまうということもありました。それは、断食道場などで一週間、断食した人が、固形物を取れないというのも酵素のシフトとつながっているように思います。

そのように、酵素というのは単体で考えるよりも、習慣に対して迎え撃つ身体のシフトであるということではないかと思います。外界からの刺激に対して、身体を守り維持し、健康を保全しようとする力があり、酵素が迎え撃っているということだと考えています。