まず、健康なとき酵素は全体として均衡がとれている状態にあるとと思われます。そして、酵素のはたらきは、「体内の維持管理」と「体外環境の適応」と考えています。
食事の内容によてって酵素のシフトが変わりますし、環境の熱い寒いによっても酵素のシフトは変わるのは、「対外環境の適応」とつながるからです。
私たちは、自分自身で環境をいくらでも変化させることができます。
・食べたいものを食べるか、セイブするか。
・身体を温めるか冷やすか。
・ぐーたらした怠けるか働くか。
どう生きようと自由です。環境は選べます。
●それを乱すのは、「やりたいようにやりたい」とするわがまま、身勝手さ。
・食べたいものを食べたい。
・熱い寒いよりもおしゃれが優先。
・眠るだけ眠りたい。
というような食事スタイルや冷えを全く無視した服装や食事の生活習慣です。そして、怠惰もいけません。眠りたいだけ眠ると身体が弱りますし、ある程度の緊張感が私たちの生活には必要なようです。
●酵素とは、「こういうものである」と、お伝えできるはずです。それは小学校六年生でもわかる程度の学力で理解いただけるのではないというのが私の考えです。酵素もまだまだ科学では解明しきれていない物質であり、体内酵素それぞれの個性や働きはわかるのですが、相互関係によりバランスをとっていることまでわかっていないでしょう。
なぜ、そう思うのかというと、病気になっても医師は食事の制限はほとんどしないからです。
また、酵素の種類、数がほとんど特定されていないからです。例えば遺伝子の情報の数や長さまでわかっています。どうして、酵素は不明なのかと思うのです。人間の体内で起こる変化は大変な数にのぼるでしょう。酵素とは変化そのものだと思うからです。
変化あるところに酵素があります。酵素があるところに、変化があります。そのように考えています。また、一方で、酵素をあまり重視されていないのかも知れません。物質としてとらえだすと迷路に入り、わからなくなる。
つまり、あるべき何かに向かって常に働いている物質であり、その何かをわからない人には、酵素はただの物質でしかなくなります。
生きる姿勢と何かつながっているように思います。
動物が病気になったり、ケガをしたときには生命の危機を感じることでしょう。そして食を断ちます。そうすることで体内酵素がからだの悪いところにゆくのです。それは、一種の祈りのような状態ではないかと私は思います。そのような心境と体内酵素のシフトは関連していると思うのです。
酵素は理系の方の専門分野でなく、文系であり、哲学であり、芸術の分野とリンクしているのです。だから物質でないといいました。「現象的」なものだと思うのです。物質でとらえるとモノとなり、本質を見失うように思います。
●私たちの身体をおおう皮膚。この皮膚は様々なはたらきをしている…ある意味で臓器の一つと考えてもいいのではないか。という意見があるようです。また、血液そのものを臓器として見る…という考えもあるようです。
そう、考えると酵素の全体性を臓器的に見ることもあってもいいと思います。身体が弱っている時、酵素のバランスが崩れていると考えて、投薬を控えるというように。酵素と免疫力、自然治癒力のつながり。生命の不思議を広く知っていただくことが待たれていると思います。
●バイオテクノロジーとか、生命の科学、生化学とか、科学者の偉い先生がたくさん研究されています。物質レベルで酵素を解明しようとされていると思われます。それに対して私がしようとしていることは、酵素を身体に摂り入れたときの現象としての結果を知ってゆくことを大切にしています。生命の真実は、物質的な側面の探求だけでなく、人類の古くから行われていた断食、絶食の中に見え隠れする健康の法則があるのです。その真実は、酵素玄米も大きな役割を似なっていると思います。
モノとして見つめるのか、生活態度への転換、食事の転換による現象とその法則性は必ず、何らかの希望を与えてくれるはずです。
<モノの側面からの追求>と<現象としての気分や感情と食事と健康の法則の追求>という道が今はあるように思います。
・呼吸による体調の変化、身体の隅々に深い呼吸による酸素の供給です。ヨガなどがそうでしょう。
・整体、カイロプラクティクによる健康法
・気功にも可能性があります。
大病であるなら、上記のことを総体的に考えてゆくことだと思います。