触媒と生物

●世界は化学に満ちています。

 

変化があるから楽しく、変かがあるからこそ、悲しい。自然の世界は、変化に富んでいます。

個性を持った様々なものや生命との出会いによって、常に変化しています。その時々によって、変化は起こります。予想もつかない変化が世界に満ちていると思います。

私達の身体も外界からの食物や温度や、さらにその個体の感情、情緒に大きく左右されて身体は変化します。悲しみや絶望を抱えた人の身体は、マイナスへの激しい変化が起こります。その逆に、難病であっても、感動や感謝を抱いた人は、好転へと身体は向かうようです。

 

●人体に遺伝子があり、その身体の設計図となるなら、自然にもその設計図があるはず。

 

私達の身体が、遺伝子情報によって、その未来図がおおよそ決まっているように、きっと、地球も自然も、その変化やそのつながりには、「予定」があるように思います。それは、きっと人類に託されているように思うのです。

(別ページで説明したいです)

太陽があり、大地と大海を住処として植物が繁茂し、動物が生きています。まず植物の誕生があり、酸素が豊富に生み出された。植物は光合成により、二酸化炭素を吸収し、酸素をつくり、豊かな実りを産み、他の生き物への貢献をしています。植物と動物は密接につながっています。「蜂の絶滅と人類の存亡」を語ったアインシュタイン博士は、地球上の絶妙な生物の関連性の全体像を知っておられたのでしょう。個々のつながり、個性と個性のつながりが営みをつくっているようです。

 

●人類史は喧嘩の歴史です。歴史によらずとも、今もどこかで喧嘩し、罵り合っているのです。

 

私達人間は利害や損得勘定で生きています。そのような人にとって、自然界全体がどのような仕組みになっているのかは、どうでもいいことです。眼前の利益のみが関心事。そのような眼差しでは、まったく観えないのが、地球のエコロジーのシステム。恒常性です。

海洋汚染、大気汚染。資源の枯渇。最近ではプラスティックが問題にされていますが、地球環境汚染が問題にされて、本当に改善に向かっているのでしょうか。私も、どれだけの環境汚染が広まっているのか、考えたことなどありません。

その被害者は間違いなく、弱い動物たちです。種の絶滅は、単調な自然になります。砂漠化です。種の絶滅が取り沙汰されて久しいですが、最近、そのような絶滅した動物の図書が出ていますが、これも警告に感じます。

 

●人類が暗転させているのなら…。

 

もし、人類が存在しなければ、種の絶滅はかなり軽減されるそうです。人間が存在するからこそ、まちがいなく、種が絶滅が加速しています。人間同士のいがみ合いが人間を滅ぼしかねない上に、他の動物までも巻き添えにしています。ただ、逆に言えば、人間が気づけば、種の絶滅が軽減され、絶滅危惧種の保護も考えられるでしょう。

各国の経済を動かすリーダーや政治を動かすリーダーは、損得、利害、権威や立場。金、金、金で生きているので難しい。ただ、人間だから気がつく可能性も考えられます。人類が暗転させているのなら、光転へと向かわしめる可能性もあります。

 

●親とは自然であること。 

 

私たち人間が自然への畏敬を取り戻し、自然によって生かされている存在であること。自然は私達の親であり、私達は人間は子供のような存在であるのなら、親である自然が抱く、ビジョンに積極的に参画するでしょう。つまり、自然界の豊かな個性とその雄大なつながりがあるのなら、いつか人間はそこに気がつくことができると思うのです。遙か未来となるのか、地球存続の危機のほうがはるかに近いか。

 

●自然界に青写真はないのでしょうか。

 

自然界には、なんの意思もなく、ただ偶然によっていろんな自然現象が生まれているのでしょうか。

私達の身体は、なんの脈絡もなく、行き当たりばったりで、身体が消化したり、新陳代謝をしたりしているのではありません。身体が抱く、遺伝情報によって、その人間の抱く、身体の青写真を具現しようとするのです。だから、食べ過ぎると口内炎をつくり、「もう食べるなよ。少しは休めよ」と、警告を発するのです。

それでも、その本人が「食べたい」と思い、外にあるものを口に運びます。そうすると、噛み砕かれた食事は、胃に送られ、胃がドロドロにして小腸に送り込み、小腸で栄養を吸収したり、栄養にならないものは大腸へと送ったりします。口の中で含まれたでんぷんは噛んでいる内に酵素によって、麦芽糖に変わり、さらに、小腸で別の酵素によってブドウ糖に変わるのだそうです。一度に変化させるのでなく徐々に変化させてゆくのですね。さらに、タンパク質や脂質なども違う酵素が働き、連携して体の栄養やエネルギーへと変換させるのです。なんと、精妙な工程を身体がこなしていることでしょうか。常に常に変化しているのです、しかも、その変化(化学)は身体の青写真に沿っているのです。

 

●身の内にある化学(生化学)を知ること

 

その人が、食通、食道楽、グルメで好きなものを四六時中食べると、この身体の中の変化の介在となる酵素が食事の方向に傾きます。数多くある酵素が食事中心の酵素シフトとなります。もっとも大切な身体を維持管理する新陳代謝の働きが怠ることにつながります。そうなると病気になりやすく、また元気もなくなることでしょう。疲れやすいかもしれません。

まあ、若い頃の暴飲暴食はなんとか越えられるものですが、中年以降の暴飲暴食は危険かと思います。年も40を越えると自然とこってりとした食事から、あっさりの和食中心への食事に傾くものです。身体がその人の味覚に影響を与えているのでしょう。このように私たちの食欲は、自分の好き嫌いだけでなく、身体が抱く何かがはたらきによって、あれを食べろとか、あれは食べるなとかという直感がはたらくようです。身体自身が抱くもう一つの意識によって私たちは選び取りを変化させているようです。身体の中に潜むもう一つの意識がまちがいなく存在することを知ることは大切かと思います。それでも、お酒、タバコ、こってりしたお料理、甘い物、食事を好き嫌いだけでガツガツ食べる人は、心の落ち着きから取り戻す必要性があるかもしれません。

 

触媒というのは、「AとBを一つにするとCとDになる」ように、誰かが意識的にそれをして初めて変化します。

酵素は、意識的にするのではないです。そのご本人が「食べたい」「美味しそう」という意思によって、身体に取り入れられたモノを身体に取り込みをし、または外に排出するという仕事をしてゆく。ここにとても不思議が潜んでいるように思えてなりません。変化をある方向へと導く。変化を青写真に沿った方向へ導く力がある。誰にでも、どんな生物にもり、個性を発揮していると思います。

 

一つの受精卵から、天文学的な数字に増殖したその細胞には、すべて均等に遺伝子が組み込まれ、その部署にそった遺伝子によって身体の一部分を形にしているのです。皮膚、毛、爪、血、血管、リンパ、肉、骨、内蔵、すべては、受精卵の「一つ」から始まり、そして、さらに、肉体として完成されたものが「私」となり、思い思いの「行動」「活動」「仕事」をしているのです。生まれ、育てられ、ロマンスがあり、次の世代を生み出す。多くの生物がそれをしているのです。なんという不思議なことでしょうか。遺伝子と体内酵素を基礎として様々な変化を生み出して、行動ができるようにしている力が誰の中にもあるのですね。すごいことです。

 

 

●その不思議を知ったなら、上手に利用しましょう。

 

「AとBを一つにするとCとDになる」というような現象は外の世界では、誰かがなさないと起こりません。

しかし、身体の中で起こるその体内の触媒反応は生きている人間が、それを知っていようがいまいが関係なく起こっている不思議です。そのような仕組みなっていることを知ったなら、ならばそれをうまく利用して健康になればいいのです。

無駄なものをできるだけやめる。でも、我慢すると反動がありますので、上手に我慢してゆく。そうすることで健康になるのです。

 

●長岡式酵素玄米の不思議

 

我慢、我慢では毎日がほんとうに辛いものです。好きなものをやめたり、食べたいというものを打ち消すのは大変です。毎日が砂漠のように無味乾燥したようになりますね。

長岡式酵素玄米ご飯はそのような、身体に不必要な食事に対して、身体がノーというような感覚を与えてくれるのです。これが長岡式酵素玄米のすごいところです。ただ、100%欲しくならないかというとそうでもないです。中には、完全に欲しくなくなることがありますが、50%くらいは、ジャンクフードを欲する気持ちがときとして出てきたりします。

そんなときは、自分自身に「我慢できるか?」と問うてみて、「食べたい」と思ったら食べてみましょう。別に特別悪いことをしているわけではないのですから。あまり、無理をしてはいけませんが、少しは無理も必要です。

 

 

自然の世界は個性を持った様々なものや生命との出会いによって、常に変化しています。まるで、そのつながりには、「変化が予定」が託されているようです。私たちは出会うことで、相手から何かを得て、また、相手に何かを与えています。良いことも悪いことも影響しあっています。「私」という存在は、いつまでも「私」でなく、出会い、関わり合うことで大きな変化をしたり、小さな変化をしています。知らない間に変わり、また、変わることを強要される辛いときもあります。私達の人生そのものがつながりの連鎖と出会いによる変化です。進んで変わろうとする人と、私は「変わらない」と頑な人もいます。これは、人生というステージの話ですが、人それぞれが触媒になっていて、化学の反応のような出会いの総和が社会です。