生命が抱く二面性

「親」という側面と「子」という側面

「大きな自然の一部」であり、「小さな自然の主体者」

●大地の営み、その恩恵を忘れる

地球には恒常性があり、自然の一部である私たちにも恒常性があります。動物、植物、たいへんな数の種が実在して、豊かな自然の様を表現しています。自然界の生きとし生けるものは、その中での役割、はたらきがあります。また、同時に一個の生命として、全体性もっているわけです。自分の生命を守り、管理する立場があります。

自然の中で生息する生物にとって、その種が存在するからこそ、自然界のバランスがとれています。全体の中で必要な個性としての働きがあります。同時に個として一つの生命であり、一つの生命の中にいろんな機能をもった要素があり、その生命の全体性を保っています。

 

個でありながら、全体性を持っていてるわけです。

 

地球の恒常性からするならば、どうやら無駄な種はいないようです。

なぜなら、産業革命以前の種の絶滅はほとんどなかったからです。

すべての種が支え生かし合っている姿が恒常性。そのような働きをもっていながら、その一つの生命は恒常性を抱いているわけです。

私達の身体も五臓六腑と機能をもった内蔵が支え、響き合ってはたらいているように。

 

全体の恒常性が維持管理されるには、個性豊かな植物の種と動物の種に本能が備わっているからです。本能によって行動範囲や餌についても自由性は限られています。地球はうまくできているようです。その地球の恒常性によって、私たちは生きているわけで、この生かされていることを「ガイア」というようです。

この地球の恒常性に学ぶことで自分自身のの恒常性(健康)を保つことが大切であり、それが健康法になるということではないかと思います。

地球の恒常性と動物としての人間の恒常性は、切り離せないことを言いたいのです。

 

 

 

 

●例えば、大企業に務める人とその家族
歴史ある大企業は安定しています。そこには、創業者の厚い願い、理念があり、経営方針があり、優秀な経営陣が存在しています。

得意先を大切にし、商品をきちんと管理し、社員の育成がされ、その生活保証があります。地域社会の貢献もあります。
社内には、生産システム、社員育成システム、管理がきちんとあり、規律正しい風土があり、仕事は厳しくともやりがいのあるものになっていて、社員は誇りを持っています。協力して仕事をやり抜くとき連帯感と喜びがあります。そして、安定した収入があります。それを得て家族を養うことができるわけです。もし、大企業の社長が自分の利益ばかり考えるならば会社の危機です。

 

●家族を支える親的な立場
その一方で、その会社員は家族を養う立場を持っています。会社では大きな組織、共同体の一員でありますが、家庭に戻れば家族を支える大黒柱として子供を育てる役割があります。老いた両親の面倒をみる立場を抱いています。今度は小さな共同体の親的存在なのです。


もし、一家の大黒柱が自分が得た収入を自分だけの楽しみに使い家族を養うことを怠れば、家族の一人ひとりに大きな不満をいだかせ、やがて崩壊に向かうことでしょう。もし、その人が安定した会社の風土のように自分の家族に対してもある風土や原則を大切するならば円満な家庭となり充実した人生を送ることになるはずです。

 

理念や原則を忘れて、好き勝手なことをしてしまいたい。それが、多くの混乱を産んでしまっているように思えるわけで、「そうは、いっても、やめられない」「わかっていてもやめられない」という場合が多いですが…。

●身体を抱く主体者の「私」
宇宙の星々の中でも、とりわけ地球は美しい星です。岩やガスの塊のような星々がほとんどを占める中で、青く輝く生命の星は、簡単にみつけられません。それでも地球のような星は、銀河の中でもかなりの数があるそうです。
太陽からの熱と光により、地球上の生命の営みがあります。地球の表層には、植物と動物の連携による生命の連鎖があります。一つの種が他の種の餌になり、連綿と環のようにつらなります。アインシュタインの有名な予言として「ミツバチが絶滅すると人類が絶滅する」という説は、種の連なる環の絶滅をさしていると思います。数限りない種の環が地球の生命である恒常性を維持しています。


自然界には、自然界の秩序があります。共存共栄です。弱肉強食に見える一面を見せながらも、実は共存共栄しています。
自然界の象徴である大地。大地は多くのいのちの営みの母体です。そして、人間の営みを支えています。私たちは、この大地の上に立ち、日々を生きています。大地から生まれ、大地に支えられている存在。生かされるならば、生かすことをその応えとして歩むことを託されている存在かもしれません。大地に生かされていること。豊かな営みを支える大地のごとき心なって生きたてゆきたいものです。

私もお世話をする役割を抱いています。仕事や家庭でそのような働きをしてゆくことを思います。さらに、自分自身という身体のお世話をする思いでできるだけ律した食事をしようとしています。

 

●「俺様」として生きている。

ある70代の男性(HT氏)は、十年ほど前にがんを患い、あちこち転移をし今は健康を取り戻されています。私が酵素玄米の話をすると、私も玄米と菜食に切り替えて健康になりましたと言われます。そして、いかに暴飲暴食が身体に悪いかを知ったと話されました。
私達は、食べることくらい好きにさせてほしいと思ってしまいますし、そのとおりなのです。が、しかし、です。それを許すとどんどんエスカレートしてゆくのです。そして、あるべき食事のスタイルを大きく離れてしまいます。それが病気の大きな誘因になっているのです。

(1)宇宙の一部の地球の自然の中に生かされています。この自然はあらゆる生命の連鎖とエネルギーの循環があり、互いに支え合うように仕組まれています。あらゆる生命が、本能という基本的な生き方、ルールを組み込まれ営んでいます。それ全体が自然の営みであり、栄えている様を表しています。自然界に育まれている「子」であり、「個性」としての側面をあらゆる種が抱いているように感じます。


(2)その一方で身体という小宇宙を私たちは抱いています。この小宇宙を管理するのは私たち自身であります。各機能が連携をして私たちは生きています。規律を作り、それに則って生きるならば健康という結果を生み出すことでしょう。

(3)自然界に潜む規律をもって生きることは、食事を自分の好き嫌いだけで摂るのでなく、本来的な規範に則ってすることになります。食事も、運動も、生活も、あるべき規律を一人ひとりが見出すときに本来的な方向へと向かうかと思います。

肥沃な大地のように、生命の営みを育む何かが身体にもあるようです。それが酵素ではないかと思います。

 

田舎にゆけば自然豊かな里山の風景に出会います。生命を育む雄大な自然に包まれているとき、優しい気持ちになれるのは私たちと自然はまちがいなくつながっていることを示しています。自然は私たちの親のような存在であります。

生活の快適さ、便利さ、個人の利害、競争、今さえ良ければいいという思い、自分さえよければという思い、…等々に目が向いてしまいますが、本来あるべきことを見失うとそれが食事にも現れるのではないかと感じます。健康のための食事が、楽しみ、ストレス発散のための食事になって、どんどんエスカレートしてしまいます。

自分の貪りのために酵素を使うのか、貪りをとどめ本来あるべき健康の維持のために酵素をつかうかです。

 

酵素とはその人の抱いている青写真の具現のために働く体内の物質で、単なる変化ではありません。

※詳しくは>>>>>まとめ:青写真と酵素

地球には恒常性があります

豊かな生命を育む条件に満たされています

動物たちは自然の中の一部として調和しています

地球の恒常性の規範を本能として

与えられた本能からはずれることはできません

 

人間の可能性と制約は本能から逸脱できること

好きなものを好きなだけ食べることはその一側面

 生活習慣病になるのは人間とそのペットだけ

「社会の中で生かされている私」

歴史ある大きな会社には確かな

理念によって運行されている。

「生かされていることを忘れてしまう私」

家庭では理念より感情が優先してしまう

ついつい好き勝手をして混乱を生み

家族に迷惑をかけてしまう

私の身体は私の所有物

何を食べようが誰も文句をいわない

 

会社の理念とシステムに従う社員がいて会社は繁栄します。

身体も理念とシステムに従うことで健康を維持できます。

 

自分の家族、自分の身体となると好き勝手になりやすく、好き勝手は一時は心地よくとも、必ず暗転します。病気になるのでしょう。